薬の常用が当たり前だった自分
今日は少し重いかもしれませんが私の話しをおつたえします。最後まで読んでくださると嬉しいです☺️
まず何故一生の仕事に【理容師】を選んだのか。
義務教育を終える前進路についての初めての選択が皆さんもあったと思います。
私が進学を望まず『理容師』になる事を望んだのか?幼い頃から病気がちだった私は学校も休みがちで
学校に馴染めませんでした。そして家庭の経済状況が悪く早期に稼ぎ手になる必要もありました。
幼いなりに15歳の自分は世の中の様々な慣習にジレンマも感じていました。
男性と肩を並べて働ける場所、手に職さえつけていれば一生独り者でも生きていけるよう
そして弟を進学させてあげられる経済力を身に付けたい!この3つが自分にとっての目標だったのです。
親も教師も大反対🤣当時の担任の先生は提出したらいいだけの願書も準備して説得されました💦
思い込んだらテコでも動かない(土3つ)の自分は説得に屈する事なく『理容師』への道へ…
理容専門学校で学ぶ中、理容師の歴史を知り他人の一生に関われるお仕事である事も知り益々理容師になりたい欲は膨らんで17歳で理容師免許を習得し一つ目の夢は叶いました。
その間も、皮膚科の薬ステロイド軟膏と激しい片頭痛を抑える為の鎮痛剤も常用していました
薬の恐ろしさも全く気にしてなかったし症状を無かった事にしてくれる物に有り難ささえ感じていたのです。
薬に対する疑問が始まる
30歳を目の前にして離婚を経験しメンタルがボロボロになり心療内科そして精神科のお世話になり始まるのですが一時の症状は抑える事が出来ても根本的な部分の改善は全くされていない…と悶々としながらも
33歳で縁あって大阪箕面に嫁ぎ東洋医学に出会い学び始めました。
そこで【食養生】の大切さを知ることになり普段の食事を調味料から少しづつ変えていました
その頃です妊娠は難しいだろうと医師に言われていたにも関わらず妊娠発覚😳がしかし…悲しいかな沢山の薬の影響を考え為…宿った命を自ら葬り去るという手段を選びました。。。それも2度も…罪の意識に苛まれ自傷と自殺未遂を繰り返したのもこの頃でした。。。
おっと重たすぎる内容になってしまっている🥹申し訳ないです🙏ただこの出来事をない事にして続きを語れないのです🙇♀️🙇♀️🙇♀️
新しい命と最後の賭けに出る
そんな事がありながらも神様は見離さずにいてくれたのか新しい命を授かります。もう高齢妊娠もプラスされ…また諦めるのか…いや、こうして何度も試されるように命を授けてくれるのは『産みなさい』という神の啓示なのかも知れない…そこで家族とも話し合い妊娠を継続する方向に進み始めました。
断薬による離脱症状と悪阻…言葉では表せられない苦しみと不調の連続…そんな体調でもお腹の子はしがみつくかの如く私の中に留まりスクスクと成長してくれました。三日三晩の陣痛からの帝王切開にて五体満足な女の子をこの世に送り出す事ができました。
襲いくる産後うつ
産後、完全母乳で育てていましたが尋常じゃない睡眠不足とワンオペによる不安と疲れからまたメンタルの不調を発症してしまったのです💦メンタルに関係する病気と呼ばれる症状はなかなか完治とは言われず寛解という言葉が使われるのも環境や考え方の癖が様々な理由により波をもち表面に現れてしまうからなのです。産後鬱は思いの外重篤な状態まで進み(助けてが言えなかった)子供に影響が出ないよう断乳し再び服薬が始まりました。そんな自分がどこまで行っても許せなかった…そんな心の状態ですから他の病気も引き寄せ続けました。
二度目の離婚へ
何もかも限界だった…夫の言動が全て許せなかった優しくされる事さえも苦痛でしかなかった。そんな自分をまた攻め続ける日々の中夫婦仲は崩壊(私が崩壊させたのですが💦)8歳になった娘を連れ徳島の実家に身を寄せ父母を始め家族や沢山の方の助けを得ながら子育てを続けいる中、やはり首をもたげてくる薬への疑念と疑問…手探りで色々な事を学びそれに伴い資格だけは増えましたが…それでも改善されず服薬そして入退院を繰り返す自分がいることに悩み苦しみひたすら自分を攻め続ける毎日でした。そんな中、自分を鼓舞し参加したマルシェで氣質診断と出会うのです。今までのものと違うという直感と自分で自分の取り扱い説明書を氣質から導き出す事ができると知り自らが氣質診断士になろうと😊
初めの一歩
そして四国初の氣質診断士に‼️なんと言う魅力的な立ち位置(はいここで土氣質丸出しになります)
これまで出会ったことのなかった自分が納得でき腹に落ちる氣質診断を四国に広げていきたい。そして少しでも誰かの気持ちが楽になり癒される事を願いながら『無料診断100本ノック』と称して診断力を上げる為お客様にお手伝い頂きました。その後松岡紫鳳代表をお招きしての『陰陽五行勉強会』を徳島で開催し新しく徳島にも氣質診断士が誕生していきました。引きこもり上等自宅警備員だった私がです🤣
家族と氣質の関係値も生活の中に取り入れる事でコミニケーションをとることが楽になり肩の力が少しづつ抜けて行き母との関係も良くなりつつありました。その後2年半程…自分の勝手で蔑ろにしていた娘に全力投球する為に氣質診断士としてのお仕事は休んでおりました。
お陰様で娘は、吹奏楽部に所属し大好きなマーチングで全国大会が開催される大阪城ホールの舞台にも立つこともでき朝日新聞社様から取材を受け誌面に掲載されたりローカルではありますがテレビにも出演するということ親からしたら偉業とも言える役目を果たし、憧れの甲子園球場アルプススタンドでの応援団としても先輩にあたる米津玄師さんのピースサインも演奏し春夏共に素晴らしい経験を手にすることができました。卒業の日には手紙を書いて渡してくれ母ちゃんは、大泣きしました。
運転免許も取り4月からは『花の女子大生』です。現在はバイトが楽しくて仕方ない状態で日々楽しんでいるようです。
新たなる夢に向かって
風水デザインスクールの松岡紫鳳代表はずっと待ってくださっていました。私はいつもここにいるから😊と…どんだけ優しく器の大きいお方やねん!キャンドルさんの愛❤️を存分に発揮されてる姿は、初めて会った頃と変わらずかっこよかった😍いや何倍も素敵で何十倍もバイタリティに溢れて輝く笑顔で迎えてくれました。
『娘ちゃんも成人したし次は実珠穂先生が自分の使命を果たす番よ』とその時から怒涛の如く物事が進み始め『デトックス薬膳管理士』『インストラクター』ダブルライセンス(実はこれも四国初😏)を活かして活動していく場が広がり続けており地元のマルシェへの出店やオンラインの交流会、勉強会と忙しくワクワクする日しかない日々がスタートしました😍😍😍
これからもっともっと氣質診断を広げ四国の共通言語に氣質診断語が加わるようにコツコツと楽しみながら発信し続けていきます(薬とも上等に付き合いながら)
最後まで読んでいただきありがとうございました。かなり端折った実珠穂物語ですが💦
誰かの心に届いてほしいそんな思いで書き綴りました。
追加…15歳の自分へありがとう…あの時選んだ理容師への道は間違いじゃなかったよ😊あの時学んだ事手に入れた知識と技術は型を変え55歳の私を支えてくれてます。